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聖アンブロジオ司教教会博士  St. Ambrosius E., D. E.   記念日 12月 7日


 聖会初代の偉大な教父達の中で、一際頭角を抜きん出ている聖アンブロジオは、340年ドイツのトリールに生まれた。父はその地の総督を務めていたが、まだ彼の少年時代にこの世を去ったので、母は三人の遺児を連れてローマに上り、細心の注意を以て彼等を教育した。中二人は男の子で長ずるや亡き父の如く官途に就いたが、アンブロジオは熱心なカトリック信者のプロブスという裁判所長の部下となった。かくて372年、32歳の時彼がリグリア及びエミリア両州の総督を任命されてその首都ミラノに赴くに当たり、上司にして且つ善き友であったプロブスに別れを告げた所、プロブスは「貴方はこれから法官よりも寧ろ司教のような心持ちで政治を執らねばならぬ」と教え諭したという。
 アンブロジオはミラノで間もなく人々の愛と尊敬とを博するようになった。実際彼の統治の仕方は厳しい裁判官のようではなく、慈愛に満ちてしかも正義に適ったものであった。
 374年ミラノの司教アウクセンチオが没するや、その後任者の選出は甚だ困難であった。というのは当時はアリオの異端が盛んであって、その教師達はカトリックの司教の選挙を妨害しようと努め、為に市内には暴動の起こる危険があったからである。
 総督アンブロジオは風雲急との報に接し、自らその場に駆けつけ、極力激昂せる群衆を慰撫した。所が突然一人の子供が「アンブロジオさんが司教になればよい、アンブロジオさんが司教になればよい」と叫びだした。それを聞くと、さながら超自然的天啓でも得たかのように、たちまち全群衆も異口同音に「アンブロジオ司教!アンブロジオ司教!」と之に和したから、アンブロジオは驚きもすれば当惑もして、そういう無理な要求には応じられぬと頻りに辞退した。何となれば彼はその時まだ洗礼さえ授かっていない有り様で、まして聖職者になろうなどとは夢にも思って見たことがなかったからである。
 けれども市民がなおも彼の司教就任を求めて已まないので、彼は術策尽きて一友人の家に隠れ、その問題の落着を待った。が、それも効なく人々に発見され、信徒はもちろん付近の司教方司祭達もその出馬を勧説し、皇帝も人民の選出を有効として御批准になったから、アンブロジオも詮方なくそれを受諾するに至った。
 彼は既に公教の要理はよく心得ていた。それで短時日の内に受洗を許され、次いで叙階の秘蹟を受けて司祭となり、遂に374年の12月7日叙階されてミラノ司教となったのであった。
 その日からアンブロジオは、祈祷と研究と慈善とに専念した。彼は正しい信仰に対する熱意を示す為に、聖教の為追放された前任司教の遺骸をミラノに迎え、礼を厚うして之を葬った。彼はまたイエズス・キリストを深く愛し、及ぶ限り主に肖るべく、沈黙を守り、殆ど絶えず大斉し、多く祈った、そしてわけても聖殉教者達を敬い、熱心に勉強し、やがて大神学者と仰がれるようになった。その著書は数多あるが、いずれも永遠不朽の価値を有し、今なお親しまれているものも少なくない。
アンブロジオは信者の聖教に対する理解を深める上にも大きな努力を払い、日曜や祝日には怠らず説教した。人々は貴賤貧富の差別なく日毎にその許へ押しかけ、彼の教訓、彼の助力を請い求めた。彼はあらゆる人、殊に罪人に深い愛と親切とを以て接した。ある時は聖女モニカも彼を訪れ、わが子のアウグスチノの改心の為祈って戴きたいと涙を流して頼んだ。するとアンブロジオは彼を慰め「御安心しなさい。そういう涙の子は決して滅亡に陥るものではありませんから」と言った。その預言は適中した。実際アウグスチノはアンブロジオ司教の説教を聴聞し、彼と語り合ってから改心し、偉大な聖人となったのである。
 彼は他人を愛してその為働いたにも拘わらず、一方には敵もない訳ではなかった。これはしかし、天主聖子なるイエズスにすら敵があったことを思えば別に不思議でもない。即ちアンブロジオは不正な者は如何に権勢の士でも容赦なくこれを誡めた。為に時としてその怨みを買うのも詮ない次第であったのである。かくてそれらの敵は色々策動して彼及びカトリックに圧迫を加えた。けれども彼は毅然としてそれらを耐え忍び、信仰を擁護し、最後の勝利を得た。
 聖アンブロジオがテオドシオ皇帝に対して取った処置は世に名高い。テオドシオ皇帝は信仰の篤い方で常日頃アンブロジオに深い尊敬を抱いて居られ、又彼の方でも皇帝を尊崇していたが、390年テサロニケの人民が謀叛を企て、皇帝並に皇后の御像を泥の中へ投げ込んでそれに侮辱を加えた所、かくと聴かれた皇帝は殊の外のお腹立ちで、早速命じてその人民を有罪無罪の区別なく皆殺しにさせられた。アンブロジオはそれと知って大いに驚きすぐさま皇帝に書簡を送って痛悔と償いの苦行を勧め、併せて暫く教会への御参詣をお禁め申し上げた。しかし皇帝は善からぬ人々の進言により、司教の命令もさまで厳重に守るには及ぶまいと思われ、キリスト復活祭の頃教会へ行幸になった。すると司教は入り口でお迎えするや「陛下には御自分の犯された罪の重さがまだ十分おわかりにならないのではおざいますまいか。どうぞこのまま御還幸遊ばしてあの大罪に又罪をお重ねになりませぬよう御願い申し上げます」と屹としてお諫めしたから、皇帝も言葉なく目に涙を浮かべられたままお帰りになった。しかしその御心にはまだ反抗の念が潜んでいたのである。
 やがてクリスマスが来ると、皇帝はまたも天主堂へ参詣に赴かれた。が、アンブロジオは再びその御入堂をお留めして「陛下は何故敢えて天主に背こうと遊ばされるのですか?」と言った。今度は皇帝も御心を打たれ「余は罪の赦しを得たいと思う。司教よ、主イエズスの限りなき御慈悲を考え、余の入堂を許してはくれまいか?」と謙遜な態度で仰せになった。それを聞くと司教は言った「それではどういう償いを遊ばしますか?」 「何なりとも汝の命ずる事を!}そこで司教は御痛悔の著しいのを認めて、軽い償いを命じ、御入堂並びに秘蹟拝領を御許し申し上げた。これに依ってアンブロジオ司教の権威が更に重きを加えたのは言うまでもないが、皇帝の御謙遜はそれにも増して人々の賛嘆を勝ち得たのである。
 皇帝は間もなく394年崩御になった。その後ローマ帝国は衰微の一路を辿るばかりであった。アンブロジオはそれを見て一方ならず心を痛めた。その中彼自身最期の近づいたことを感じた。「わがこの世を去る日の何ぞ待ち遠しきや。ああ主よ速やかに来り給え。我をいつまでも拒み給うなかれ」これは彼の書き納めの言葉であった。その二、三日後、あたかも聖金曜日に彼は手を差し伸べて祈り、その姿勢のまま御聖体を領け、安らかに目を閉じたのであた。時に397年4月3日のことであった

教訓

人を恐れず常に汝の義務を果たせ。天主は主を信頼し奉る者を決して見捨て給わぬ。常に正しくして、また憐れみの心を養え。